森田浩之の政治コラム(最新回)

森田浩之の政治コラム

第270回 公益事業としての通信

情報通信業界の主体が民間企業であるため、この産業自体が自由市場原理に基づいているという認識が広く行き渡っている。しかし今回の事態を受けて、改めて通信が公益事業であることが確認されたのではないだろうか。

 公益事業は「労働関係調整法上は、運輸、郵便、信書便、電気通信、水道、電気、ガス、医療、公衆衛生の事業であって、公衆の日常生活に欠くことのできないもの及び内閣総理大臣が指定した事業をいう。これらについては、その公益的性格から、強制調停、緊急調整、調停に際しての優先的取扱い、争議行為の予告義務等の特別な規制がされている」(有斐閣『法律用語辞典』第4版)のことであり、政府の監督下に属する。

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 上記の全産業に当てはまるわけではないが、公益事業の特徴は、①生活を営む上で必要不可欠、➁ネットワーク性のため独占化しやすい、➂設備投資費が莫大なため民間からは出現しにくいことである。だから上記のなかで運輸と医療以外が国営から始まったのには必然性がある。

 ネットワーク性は、日本全国どこでも利用できることが前提で事業を開始できることを意味する。郵便ならばポストが近くになければならないし、電気・ガス・水道ならば全家庭で利用できるくらいに電線・ガス管・水道管が張り巡らされていなければならない。通信も同様に、家のすぐ近くにまで回線が通っていなければならない。これは都会地でも、過疎地でも同じである。過疎地では採算が取れないからといって、そこには電話線を引かない、というわけにはいかない。

 現在の状況がいつまで続くかは不明だが、「ニューノーマル」にはテレワークが含まれるであろう。これは当初の"仕方なく"始めた在宅勤務ではなく、恒常的な新しい働き方としても注目されている。たしかに業種によってはオフィスに集まらなければできないこともあるが、在宅が可能な業種で、社員が希望するならば、テレワークを続けるのはよいことだと思われる。

 テレワークを恒常化するかどうかは、あくまで可能な業種かということと、社員が希望するかということに依存する。緊急事態宣言下のように"せざるを得ない"状況ではなくなるから、不可能な業種で強引に進めることは副作用を引き起こすし、希望しない社員に押しつけることはモチベーションの低下につながる。

 しかし多くの業種では、会議や意見交換、ブレーンストーミングなど、人が集まることで効率が上がる仕事と、ひとりで集中して取り組むべき仕事の両方があるのではないだろうか。後者に関してまでオフィスに行かなければならない理由がなければ、これについては在宅でもよいはずだ。

 ただし、この3か月で明らかになったように、在宅を楽しめた人もいれば、在宅がつらかった人もいる。人のメンタル面も考慮しなければならないから、会社の都合だけで強引に進めるのはよいことではない。テレワークを恒常化するかどうかは、業種、会社の方針、社員の都合など、多角的な観点から検討しなければならない。

 今後の生活と通信のあり方に関しては、単純化して「仕事」「教育」「娯楽」の3領域に絞ったほうがわかりやすいだろう。ほかの分野を軽視しているわけではないが、それらについては、応用例と考えたい。

 仕事についてはテレワーク中心になるかどうかが論点だが、教育に関しては分散登校とオンライン授業との兼ね合いが課題になる。教育では、できるだけface to faceが望ましいのは言うまでもない。しかし長期的展望として、つまり完全にもとに戻ったという前提でも、オンライン授業は残しておくべきだと考えている。

 むしろ、たとえば授業の5分の1は恒常的にオンラインにするというのも、ひとつの考えではないだろうか。学校は必ずしもすべてが学びの場というわけではなく、友達との交流の場でもあり、親が子どもを預ける場でもある。そしていつも先生がそばにいるという安心感も重要である。

 一方で、自分で考えて問題解決していく人材を育てるためには、少し突き放すこともあっていいのではないかと感じている。オンライン授業の欠点でもあり、利点でもあることは、授業が一方通行になることであるものの、その反面、自分で補う努力が必要な分、自立心が養われる。

 私の理想はライブのオンライン授業ではなく、録画オンデマンド型である。具体的には、放送大学のように、だれでも見れて、だれでも学べて、学位が欲しければ正式に入学すればよいが、学びたいだけならばテキストを買ってきて家でひとりでやればいい。そういう自由な学びの場がオンライン教育の意義であろう。

 娯楽に関してはスポーツと音楽に特化して、演劇などはここから延長してお考えいただきたい。ここでの問題は、採算が合うのか、無観客や少観客で選手・演奏者が張り切れるのかということである。

 プロ野球は先月から、サッカーのJ1は今月から無観客(リモートマッチ)でスタートする。これが可能なのは、テレビ放映権でお金が入ってくるからである(サッカーでは苦しいチームもあるだろう)。しかしほかのスポーツはテレビ放映がなければ試合をする意義は小さいし、スポンサー収入については、観客を入れて広告が観客の目に触れることが前提になっているから無観客は採算面で厳しい。

 観客を入れるにしても、キャパシティーの半分とか、5000人とかということであるならば、チケット収入で経費を賄うことはむずかしい。ただし、それよりもなによりも主催者が心配しているのは、少観客でも試合前後には「密」ができやすいから、いつから観客を入れられるかは未定である。

 同時に選手・演奏者を奮起させる「ライブ感」であるが、これに関しては、彼らがプロである以上、心配していない。スポーツの場合は、そのうち選手が慣れてくれるだろう。集中力こそ、プロたる所以だから、彼らは無観客でも一流のプレーを見せてくれる。音楽に関しても、演奏者はスタジオ録音のつもりでやってくれれば、プロである彼ら・彼女らが質を保証してくれる。

 問題はオンラインの観客がお金を払ってくれて、オンライン・パフォーマンスで儲かるのかということである。オンライン観賞が普及した理由はYouTubeに代表されるように、基本的に無料のためであった。野球はテレビで見るものだったから、これもタダだった。ただしこれについても「スポーツも、音楽も、有料会員のみがオンラインで楽しむもの」という習慣が根づけば、定着していくのではないだろうか。

 ここまで個別に見てきたように、通信は電気・ガス・水道に匹敵する公益事業であることがわかる。電話も最初から公益事業だったが、電気・ガス・水道ほどの必要不可欠性は共有されていなかったようだ。理由は必要不可欠性の度合いと、代替手段があるのかどうかということではないだろうか。

 私はしたことはないが、聞くところによると、料金を支払わないとガスは止められるが、電気と水道は止められないとのことである。生死の問題になるから、滞納している人にも供給しなければならない。それほど電気と水道は生きることに直結している。

 同様に、電気と水道には代替手段がない。オール電化であればガスはなくてもいいが、電気の代わりはないし、水にいたっては、これこそ生命の源である。

 通信は死に直結するわけではないが、現代ではこれがなければ「普通の生活」ができないくらいの公益性を有している。仕事と教育でオンラインが当たり前になれば、滞納しても停止できないほどの公益性があるとも言える(だからといって、滞納しないでいただきたい)。

 ここで話は冒頭に戻る。情報通信業界全体で見れば、参入企業は民間経済のなかで競争している。しかし通信だけは「強制調停、緊急調整、調停に際しての優先的取扱い、争議行為の予告義務等の特別な規制」のもとに置かれている。通信事業者であるかぎり、政治から離れることはできないようだ。

(このコラムは毎月1日と15日の月2回。次回は7月15日の予定です。)

【森田浩之プロフィール】

東日本国際大学客員教授。長年、哲学と政治を学んできたが、現在は人工知能の基本理念と社会的意味について研究している。NTT労働組合の機関誌『あけぼの』に「未来を語ろう――ICT/AI研究ノート」を連載中。著書に 『情報社会のコスモロジー』 『社会の形而上学』 『小さな大国イギリス』『ロールズ正義論入門』がある。NTT労働組合の学習会では、情報通信政策について解説している。