森田浩之の政治コラム(最新回)

森田浩之の政治コラム

第238回 悲劇を減らすために

 なにげなく見たニュースがいつまでも頭から離れないことがある。長くなるが、本文から引用することで、中身を共有したい。題名は「WEB特集 九州大学 ある"研究者"の死を追って」(NHK NEWS WEB 2019年1月18日付より引用)。

 「去年9月7日の早朝。福岡市の九州大学で火災が発生した。現場は、大学院生が使う研究棟。所狭しと研究室が並ぶ『院生長屋』と呼ばれる場所だった。キャンパスの移転で、取り壊しが始まるやさきに事件は起きた。焼け跡から遺体で見つかったのが、K、46歳。九州大学の博士課程まで進み、9年前に退学した男で、誰もいなくなった研究室に放火し、自殺したと見られている。」

 なぜこのようなことが起こったのかというと、NHKは背景を次のように説明する。「Kが大学院で没頭した研究は、憲法だった。『人は法のもとに平等である』という理念に強く引かれていたという。」

「しかし、Kが研究者を目指した1990年代後半、大学院生を取り巻く環境は一変していた。国は国際競争力を高めようと、大学院生を約10万人(91年)から約20万人(2000年)に倍増させた。その一方、教授など正規の研究者のポストは限られていた。」

「競争が激化する中、Kは研究に専念することができなかった。......大学院の仲間たちは、正規の研究者になったり、諦めて就職したり、Kのもとから次々と去っていったが、それでもKは研究者を目指し続けた。しかし、博士論文を書き上げられないまま、在籍期限を迎え、37歳で退学した。」

 専門学校の非常勤講師で夢をつないできたが、将来に絶望し、今回の悲劇に至った。そして「事件後、ネットに広がった『ひと事ではない』という声。実はその多くが、非常勤講師からのものだった。」

 この記事を読んでショックを受けたのは、自分が似たような境遇にあったことと、自分が感情移入できる対象がないと、問題の痛切さを実感できなかった敗北感である。

 この特定の事件自体をどう受け止めるかは、読み手次第である。これを「悲劇」と捉えるか「自己責任」と見なすかは、それぞれの感性に任されるべきであろう。しかし私としては「平等な社会にしよう」とか「正義を実現した世の中を築こう」と主張してきたのが単なる掛け声だったのかと、自分を反省する機会になった。

 この事件は「放火」であり「自殺」であるから、犯罪でもあり、ある人生の悲しいエピソードでもある。背景は大学という特定の領域に関わる個別事案であり、そんななかで転職せずに学問の道を進み続けたのは「自己責任」と言えなくもない。

 しかし世の中には「勝者」と「敗者」がいるが、敗者をどう救うかということは現代においてもまだ解決されていない。そしてやはり、こんな言い方をしたら失礼であるが、Kさん(呼び捨てではなく、私は「さん」をつけたい)は敗者であり、この人を救えなかったことは、少なくとも一部には、社会に責任があるような気がする。

Kさんについて、なにができたのかということではない。おそらく、なにもできなかったのではないか。しかし社会として、ある世界で敗者が発生してしまったら、同胞の義務として救済制度を組み込んでおくべきではないだろうか。

 ただし、ここにはいろいろな課題が入り込んでくる。すべての人に同じ成果を与える制度では競争は成り立たないから、今回の場合で言えば、研究者間で切磋琢磨するというインセンティブも失われてしまう。たくさん勉強して素晴らしい論文を書けば大学に職を得られて、あまり勉強をせず優れた業績を残せなければポストはないという競争を導入しないと、だれも研究に没頭しないであろう。

 一方で記事のように、大学院生の数は増やしつつ大学の正規教員の数を減らせば、敗者がたくさん現われる。とはいえ、教授職の数は増えないから大学院生の数を据え置くのがよいのかというと、これもむずかしい。

 なぜ大学院生の定員を増やしたのかというと、大学院で特別なスキルを磨いた人を大学ではなく社会に送り出して、専門性の高い人材を企業で活用しようという意図があったからである。そして私は、目標は間違っていなかったと思っている。

 問題は企業が大学院生を採りたがらないことと、それでも政府が定員増を続けてきたことである。私はいまでも、企業は大学院卒業生をもっと雇用すべきであると信じているが、実際のところ、日本の制度では、むしろそれほど専門的に勉強してこなかった人を採用して、そこから社内で訓練していくほうが、企業にとって有益な人材になると考えられている。そして、これを否定することはできない。

 ならば文部科学省が大学院生の数を減らせばよかったのかというと、意欲のある人が大学院に入ることをむずかしくするという面で、これにも難点がある。要するに、ひとつひとつの政策を個別に見ると、それぞれに問題はないが、それらを足し合わせると悲劇の原因になるという袋小路に陥ってしまう。

 結局、答えは振出しに戻り、個々の領域で発生した「敗者」というか「脱落者」を社会でどう救っていくかという総論で対応するしかない。というのも個別分野(ここでは学問界)で競争をなくしたら、切磋琢磨するモチベーションが失われてしまうからである。かといって、競争を奨励し過ぎれば、人間関係に軋轢が生じ、精神的に消耗してしまう。

 脱落者(この表現が適切かどうかは別にして)を救うことは、特定の世界での敗者を社会全体でどう吸収していくかということであろう。ひとつの方法は、敗者は低所得者だから、富の再分配によってお金の面で彼らの生活を支えることである。

 しかし「低所得者」と「脱落者」は別で、前者は金銭的に対応できるが、後者はさらに踏み込んで精神的な苦悩を含んでいる。これを社会で救うためには、個別領域から弾き出された脱落者に社会として「居場所」を与えることではないだろうか。これは所得の再分配では済まない、大きな課題である。

(このコラムは毎月1日と15日の月2回。次回は3月1日です。)

【森田浩之プロフィール】

1966年生まれ、東日本国際大学客員教授。フリーの著述家として、政治・経済について執筆・講演する一方、情報通信政策研究会の座長を務めている。NTT労働組合の政治学習会では、全般的な政治・経済に加えて、「これからの労働運動」「若者と政治」「NTTをめぐる規制と情報通信政策の動向」「地方分権時代の政策立案」など、多彩な内容の講演を行なう。著書に『小さな大国イギリス』(東洋経済新報社)、『社会の形而上学』『情報社会のコスモロジー』(共に、日本評論社)など。