森田浩之の政治コラム(最新回)

森田浩之の政治コラム

第240回 人工知能をめぐる論点

 今後、人工知能が高度化すれば、われわれの暮らしは変貌するだろう。これに関して複数の論点が挙げられる。第一に人工知能を具えたコンピュータやロボットが人間の職を奪い、大量失業が起こるという恐怖がある。第二に人工知能だけでなくコンピュータのOSやアプリケーションが海外に乗っ取られて、日本企業に活躍の場がないという懸念もある。

 大量失業の未来像は現在の産業革命(第四次産業革命)が18世紀の産業革命のように、それまで人間がしてきたことを機械が引き継いで、彼らを失業させるシナリオである。

 18世紀の産業革命の要は蒸気機関であるから、これは「動力」革命であった。窯に石炭をくべて小さな爆発を起こすことで、ピストン運動を導き、その先にさまざまな器具を取りつけることで、工場を稼働させて、機関車を動かした。

最初に導入されたのが繊維業であったため、職人が「ラッダイト運動」(機械打ち壊し運動)に入ったが、結局これらの職は工場労働者に移った。

 人工知能が発達するとロボットが認識能力を持ち、単純労働が機械に取って代わられるが、これらの業種の人びとが職を失うことが第四次産業革命の負の面である(第一次が農業、第二次が上記の工業、第三次が情報革命)。

 実際に大量失業は起こるのだろうか。第二次革命後に職人は失業したが、工場労働者という新たな職が生まれ、人材はそこに吸収された。今回の場合、デジタル化・コンピュータ化は人を必要としなくなるから、代替の職は創出されないという悲観論がある。

 私は根拠なく「その場に置かれた人びとは、人に職を与えるために、わざわざ新しい業種を創り出すだろう」と楽観的になっている。というのも、第四次の機械化は必ずしも既存の職に代わるものばかりではないからである。

 たとえば無人小型自動車でスーパーから品物を近所の住民に届けるサービスが始まりつつある。これは既存の職に取って代わるというよりは、それまで存在していなかった商売をゼロから創出したことになるから、雇用の喪失は起こってない。

 またIoT(モノのインターネット)の時代では、工作機械にセンサーをつけて自動車工場で動かすとか、化学プラントにセンサーを設置して液漏れや亀裂を感知する業種は、既存の職を奪うのではなく新産業の創造であり、それで失業者が発生するわけではない。

 むしろ私が心配しているのは機械(コンピュータ、ロボット、センサー)が人間と違い、生産はするが給与を払わなくてもよいことである。機械であるから設備投資費はかかるが、それさえ払えば、あとの収益はすべて機械所有者=資本家の稼ぎになる。これは著しい貧富の格差を生み出すであろう。

 第二次産業革命の頃から、資本家は機械が稼いだ収益を独り占めできた。第四次産業革命以降は、機械が代替できない仕事は人間が担うが、そこではひとつひとつの作業に対する対価が支払われるだけだから、それほどの大稼ぎにはならない。

一方、機械は人間以上に生産性は高いが、ひとつひとつの動作に給与を払う必要がないから、機械の稼ぎはすべて資本家のものになる。機械の生産性が高ければ、それだけ資本家の実入りも増えるから、資本家と労働者との金銭的な格差はどんどん広がっていく。

 これについては政治の介入が必要であり、所有者に投資のインセンティブをなくさせない程度に課税することが求められる。富を大きくして社会全体で共有できれば、第四次産業革命後の「ソサエティー5.0」はユートピアになるが、格差を放置したら少数のスーパースターと大多数の貧民という二重構造になり、社会的分断は修復不可能になるだろう。

 第二の日本から世界的なIT企業が現われるのかという論点に移れば、前提に人材育成という難題があることを確認しなければならない。われわれのコンピュータOS(WindowsかMacか)もスマートフォンOS(iOSかアンドロイド)も外国製である。

 われわれがこれらの機器を使うたびに、データはマイクロソフト、アップル、グーグルに吸い取られていく。データは消費行動の予測などの二次的な商業利用や、機械学習の人工知能を高度化するために活用される。

 加えてEコマースのアマゾンやSNSのフェイスブックも世界の顧客から膨大なデータを得て、それらを自身の次の商売や二次的な目的に転用している。データが新時代の資源であるから、これは日本の産業にとって死活問題である。

 日本で嘆かれているのは世界的IT企業が出てこないことだが、これらの企業は1憶人に1人というくらいの特別な才能と、とてつもないバイタリティを持った類まれな人びとによって設立された。日本にこういう人がいないことは、嘆かわしいことなのか。

 日本のビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズ、ジェフ・ベゾス、ラリー・ペイジ、マーク・ザッカーバーグが存在しないことは、悲しいことなのだろうか。こういう人を日本で育てたいならば、社会構造全体を変えなければならないことを考慮すべきだろう。

 アメリカでは、高校で特別に数学ができると、そのまま大学に進学することが許される。その際、体育が「不可」でもかまわないが、日本では、ひとつのことが飛び抜けるよりも、全科目が同程度にできるほうがいい。日本にこの慣習を変える機運はあるのか。

 あるアメリカの学者は20歳の時に博士号を取っている。日本では6・3・3(小中高)を順当に過ごして、4年間の大学の後、5年間の大学院が待っている。近年は大学院の飛び級は認められているが、20歳の博士はあり得ない。

 日本はこのようなシステムを許容するのだろうか。こういう話を抜きに「人がいない」と嘆くのは、物事の片面しか見ない一方的な議論のような気がする。

 私はどちらかが正しいとは言えない。必要なのは教育をふくめた社会システムに関する合意であり、人びとが賛同しないまま強引にエリート教育を導入すれば、社会的亀裂を引き起こすであろう。私はこちらのほうが日本版ビル・ゲイツを輩出するよりも、損失は絶大だと考えている。

 つまり日本にグーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンのような世界的IT企業が欲しいなら、ずば抜けた人材によるスタートアップ企業が求められる。そしてそういうずば抜けた人材を育成するためには、極端なエリート教育が必要になる。

 しかし心の準備のないままに、日本に極端なエリート教育を導入すれば、能力格差を容認することになるが、われわれはこのような著しい能力格差を容認するのだろうか。さらに、いまの日本はまだ、ひとつの能力が飛び抜けた学生よりも、すべての科目が同程度に出来る人を評価している。そんななかに体育は「不可」だが、数学が教師よりも優れているため、高校1年からいきなり大学院に飛び級することを、社会は受け容れるのだろうか。

 もし精神的用意がないまま超エリート教育を採り入れれば、「エリート」と「落ちこぼれ」との格差はもっと広がり、それは社会的なひずみとなって人びとの心を蝕んでいくだろう。いずれにせよ、どんな施策にも副作用があることを認識することなしに、安易な政策提言はしないほうがいい。

(このコラムは毎月1日と15日の月2回。次回は4月1日です。)

【森田浩之プロフィール】

1966年生まれ、東日本国際大学客員教授。フリーの著述家として、政治・経済について執筆・講演する一方、情報通信政策研究会の座長を務めている。NTT労働組合の政治学習会では、全般的な政治・経済に加えて、「これからの労働運動」「若者と政治」「NTTをめぐる規制と情報通信政策の動向」「地方分権時代の政策立案」など、多彩な内容の講演を行なう。著書に『小さな大国イギリス』(東洋経済新報社)、『社会の形而上学』『情報社会のコスモロジー』(共に、日本評論社)など。