森田浩之の政治コラム(最新回)

森田浩之の政治コラム

第212回 不平等の起源

貧富の格差を是正する策として、機会の平等が挙げられる。ここにはふたつの帰結が想定される。ひとつは、スタートラインが同じであれば、結果も同じになるだろうというもの。もうひとつは、スタートラインが同じでも結果は同じにならないが、機会を平等に与えたのだから、結果に関しては手を加えてはならないというものである。

最初に申し上げたいのは、私は理屈ではなく、感情面での平等主義者だということである。恵まれない人の境遇を知ると、頭脳で反応するのではなく、自然に身体が反応して、たとえば涙が出てしまうということである。これほど強く身体が反応した後に、これをどう解決するかという理性の段階が来る。

あえてこれを書き添えたのは、以下の考察だけを見ると、格差を容認しているように読めるからである。それだけ不平等の問題は複雑である。

ここではとりあえず貧富の格差を金銭的なものと限定しておこう。もちろんどんな不平等も結局は金銭面に焦点が当てられ、実際に所得や資産が問題なのだが、金銭的な格差以外にも、地位の格差、環境の格差、自分を価値ある存在と見なす自信の格差など、たくさんの不平等がある。

金銭的格差こそが人生に影響を及ぼすものの、もしかしたら自信の格差のほうが金銭的格差より心理的には深刻かもしれない。とはいえ、ここでは金銭だけに絞っておこう。

金銭的格差をもたらす要因はなんだろうか。運、才能、教育、これらと別個ではないが親の所得、家以外の地域(都会か過疎地か)、やはりこれらと別個ではないが本人のモチベーションなどである。

これら1つひとつについて、各人を完璧に平等の状態に置くことは不可能である。だからせいぜい教育程度を同じにするくらいのことしかできない。しかし教育程度を完璧に同じにすることさえ不可能である。

教育程度を同じにするということは、最終的な(たとえば20歳の時点での)学力を同じにするということであろう。そのためには同じ年齢の子供たちに、完全に同じ教育を受けさせなければならない。これ自体不可能だが、それはすべての学習条件を同じにできないからである。

完璧に同じ教育とは、全員に同じカリキュラムを同じ速度で受けさせることであるが、これからして無理である。というのも、すべての子どもたちの条件が同じでないからである。国語が得意な子がいれば、数学が苦手な子もいる。教員はそれぞれの子どもたちに合った教え方をしなければならないが、すると自然に(国語や数学などの)個々の課目において成績に差が出てくる。

たとえば12歳の時点で学力を同じにしたければ、それ以前の段階で、全員に同じ頭脳を持たせなければならない。すると一足飛びに非現実的な想定に入ると、そもそも生まれる前の段階で遺伝子操作をして、全員が同じ脳の働きをするように細工をしておかなければならない。これは不可能であるとともに、倫理的な問題を引き起こす。

個々人の頭脳の働きが異なる以上、全員が完全に同じ学力に至ることはないと同時に、それ自体が望ましいこととは言えない。というのも結果が最初からわかっていれば、だれも努力しないからである。競争社会にはたくさんの課題があるが、だからといって人間社会からすべての競争をなくしたら、一切の進歩を否定することになる。

ここまで不平等について語ってきたが、これは格差論の一断面に過ぎない。まずすべての不平等が金銭だけで語れるわけではない。また金銭的格差だけに限定するとしても、それがすべて教育程度で説明できるわけではない。さらに教育という側面から格差について考察するにしても、教育程度を完璧に平等にすることは不可能であり、かつおそらく望ましくない。

ここまで限定してきた上で改めて教育における競争について考えてみると、これは端的に「結果が同じで努力が報われないなら、だれも勉強しない」という結論に行きつく。

ではなぜ教育が政府の義務になったのか。おそらく第一義的には格差是正ではなく、教育が国家的プロジェクトだからであろう。国家が安定し、可能なら大きく強くなるためには経済発展しなければならない。そのためには科学技術の進歩と国民レベルでの共有が必要になる。多くの人が高い知識水準を獲得することで、高度な技術を使える人が増えて、富が創造されるということである。

現代における宝は情報通信技術であるが、国民全員が同程度にこの技術を使いこなせるわけではないから、それによって所得の格差が生じる。コンピュータを使える人とそうでない人、使える人のなかでもプログラムを書ける人と書けない人、書ける人のなかでも高度なサイトを作れる人と簡易なサイトしか作れない人などであるが、このようなスキル上の優劣で所得が決まる。

高度なプログラムやアルゴリズムが書けることで高い収入を得られるというのが現代社会のルールであるが、ここには不平等に関して無数の論点が隠れている。全員を同じ程度の習熟度にするには、どこを基準にすべきか。上のほうなら、それは不可能だし、下のほうに合わせると、技術の進歩を犠牲にして、全員が低レベルのコンピュータで我慢しなければならない。

技術の習熟度に関する差異は認めるが、それによる所得格差は認めないという立場も考えられなくはない。しかしこれを受け容れると、経済に対する貢献度の高い人にも低い人にも、同じ賃金を支払うことになる。マーク・ザッカーバーグと私の所得が同じとわかっていたら、彼はフェイスブックなんて立ち上げなかっただろうし、同様にこの世にグーグルもアップルもアマゾンも存在していないだろう。

個々人の条件を同じにすることはできないし、社会から競争をなくしたら進歩はなくなり、競争は認めても金銭的な報酬を否定したら、競争が形骸化する。要するに、この世から不平等を根絶したいという熱意があっても、事は簡単ではないということである。

(このコラムは毎月1日と15日の月2回。次回は2月1日です。)

【森田浩之プロフィール】

1966年生まれ、東日本国際大学客員教授。フリーの著述家として、政治・経済について執筆・講演する一方、情報通信政策研究会の座長を務めている。NTT労働組合の政治学習会では、全般的な政治・経済に加えて、「これからの労働運動」「若者と政治」「NTTをめぐる規制と情報通信政策の動向」「地方分権時代の政策立案」など、多彩な内容の講演を行なう。著書に『小さな大国イギリス』(東洋経済新報社)、『社会の形而上学』『情報社会のコスモロジー』(共に、日本評論社)など。