森田浩之の政治コラム(最新回)

森田浩之の政治コラム

第208回 リベラリズムの復権

自民党、公明党だけでなく、野党においても、たとえば集団的自衛権を可能にした安全保障関連法を受け入れる立場を総じて「保守」とするならば、これらの勢力は今回の総選挙で衆議院の8割に達した。

しかし、実際に国民の8割がこの意味での保守を支持したのかというと、そうではない。衆院選は小選挙区と比例代表から成るため、大ざっぱだが、今回、自公は得票率(投票者の何割が自公に入れたか)で言うと、5割に届かない。しかし議席率(国会に占める割合)で見ると、7割弱である。

ということは、国民の過半数以下にしか支持されていないのに、議会では憲法改正を発議できる3分の2を超える。歪んだ選挙制度によって、国民の意思と国会の意志とのあいだに大きな歪みが生じた。

当座われわれにできることは、少数ながらも国会で徹底抗戦して、改憲とくに9条改正を阻止することであるが、長期的には、国民の意思がよりダイレクトに国会の構成に反映されるように「選挙で勝てるリベラル」を育てることである。

ここで「リベラリズム」と「リベラル」という用語について整理しよう。リベラリズムは通常「自由主義」と訳され、これに「ネオ」(新)を付けると「新自由主義」となり、1980年代の「小さな政府論」「市場原理主義」「保守主義」になってしまう。そうすると、「リベラル」とはまったく反対の立場になる。

しかし歴史的には、これは歪曲された使われ方である。リベラリズムは語源的には「政府の抑圧からの解放」に始まる。17~18世紀のヨーロッパ市民革命の主眼は、絶対王政のもとで虐げられてきた人たちの自由を確保することであった。

この「自由」を個々人が持つべき資格として規定したものが「権利」であり、そのなかで特に生存や幸福に関する部分を「人権」と名づけた。だから現代でも一部の国で、軍や警察が反体制派を弾圧したり、政府に批判的なメディアを取り締まったり、少数民族を迫害すると、それらを「人権侵害」とする。

もちろん現代の日本において、警察が政権に批判的なデモ隊に発砲したり、政府を追及するジャーナリストを拘束したり、多数派とは異なる宗教の信者を虐殺することはない。

しかし、それでもいつも心に留めておくべきことは、政府が絶大な権限を持っていることと、その気になればそれを乱用できることである。

われわれ市民が政府にこれだけの権力を授けたのは、これだけの権力がないと、政府が社会の悪を取り締まれないためである。残念ながら、人間のなかには天使でない人もいる。犯罪を取り締まる当局がなければ、犯罪が増えてしまう。

そのために政府に警察権を与えたのであるが、政府はいつでも国民から任された範囲を逸脱しようとする。だからわれわれは政府をいつでも監視し、人権を守る努力を怠ってはならない。このようにリベラリズムは、個人の自由・権利を最優先する立場である。

時代は過ぎ、多くの社会的課題が政治の領域に入ってきた。17~18世紀のリベラリズムの発生期には、経済は政府の任務ではなかった。転機は18世紀後半の産業革命である。

それまでの社会構造は、土地を所有する貴族と、その土地で耕作する農家の二層であった。ここに新興勢力としてのブルジョワジーが登場する。彼らは資本を投じて工場を建てて、そこに労働者を雇い入れ、彼らに生産させた商品を売って、利潤を得る。

ここに新たな権利が現われる。それまでは「生命を脅かされない権利」や「政府に不当逮捕されない権利」が中心だったが、産業革命によって、資本家に「搾取されない権利」が加わる。

これは資本主義がもたらす弊害であるから、政府は資本主義を否定しないまでも、その歪みを正すため、資本の移動を規制したり、経営者に労働者の権利を守らせるために取り締まった。

これで資本主義の暴走を止めたり、市場の猛威から働く者を守ったり、自由経済が引き起こす貧富の格差を是正することも、政府の任務として追加された。

これらの権利を確保することが政府の役割であるが、そのために市民は政府に絶大な権力を託した。しかし絶大な権力は、ひとつ間違えば、善良な市民に向けられかねない。

ここから「リベラリズム」と現代的な「リベラル」の共通点が見えてくる。まず権利中心の政治であること。つぎに弱者の立場に立つこと。この弱者とは、政府に弾圧される側でもあれば、資本主義・市場原理によって貧しい生活に追い込まれた人たちでもある。そして政府の行動範囲を明確に線引きする。

ここから現実的な政治のスタンスも見えてくる。個人の自由を大切にするから、市民の権利を侵害しかねない権限を政府に与えない。だから特定秘密保護法、集団的自衛権、共謀罪に反対し、9条改正が中心の改憲に異を唱える。

また強い者をもっと強くする経済政策ではなく、貧しい人たちを底上げする経済政策を採用する。

さらに法律に基づいて市民の私生活に介入するのが政府の任務だから、政府の執行権を制約するために、その上位に憲法を置く。憲法によって政府による権力の乱用を未然に防ぐのが「立憲主義」である。

国会の勢力においては、現時点では、この立場は劣勢である。しかしこの考え方は、潜在的には、国民のなかに浸透している。

われわれがすべきことは、この思いを顕在化させて、それが政治的な力になりうることを、多くの人に知らせることである。そうすれば、国会の議席に反映されていく。

(このコラムは毎月1日と15日の月2回。次回は12月1日です。)

【森田浩之プロフィール】

1966年生まれ、東日本国際大学客員教授。フリーの著述家として、政治・経済について執筆・講演する一方、情報通信政策研究会の座長を務めている。NTT労働組合の政治学習会では、全般的な政治・経済に加えて、「これからの労働運動」「若者と政治」「NTTをめぐる規制と情報通信政策の動向」「地方分権時代の政策立案」など、多彩な内容の講演を行なう。著書に『小さな大国イギリス』(東洋経済新報社)、『社会の形而上学』『情報社会のコスモロジー』(共に、日本評論社)など。